中学生の女の子と大学生の従兄の、甘酸っぱい恋愛ストーリー

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世界一のバレンタイン

前編

「一年生、集まれー」
 二ノ宮綾たち、女子陸上部の一年生が練習後の後片付けをしていると、急にキャプテンが集合を掛けた。ハードルを片付けていた綾が振り返ると、すでに着替えを終えている二年生に加え、とっくに部活を引退し高校受験戦争真っ只中の三年生たちまでもが集まっていた。
 ただ事じゃない雰囲気を感じ取って一年生が駆け足で集合すると、キャプテンが整列した一年生を軽く見回して笑顔で口を開く。
「えーと、今日は引退した三年の先輩方にも集まってもらいました。なぜかって言うと、我が陸上部が一年に一度行う大イベントの抽選をするからです」
 一年に一度、という件で綾は嫌な予感がした。多分、アレだろう。この時期、女子が受験勉強を放ってまで行うイベントと言ったら、アレしかない。
「それは何かって言うと、バレンタインイベントです。我が女子陸上部では毎年、男子陸上部にチョコをあげるのが伝統になってます」
 当然ながら初耳の一年生たちから笑い声やらざわめきやらが漏れる。やっぱりか、と綾はため息をついた。そんなことだろうと思った。というか、この時期にこんなことしてて三年の先輩たちは大丈夫なんだろうか、受験。
 綾の心配をよそに、キャプテンはにこやかに話を続ける。
「それで、誰が誰にチョコをあげるかっていうのを、伝統に従ってクジ引きで決めたいと思います」
 キャプテンが、クッキー詰め合わせが入っていた空き缶を一年生に見えるように突き出す。中には、折りたたまれた紙片が人数分だけ入っていた。
 ここに来て、三年生への心配は自分への心配になり、さらに心配を通り越して憂鬱になってきた。どうやら、女子部がみんなで男子部にチョコを用意するんじゃなくて、一対一でチョコの手渡しをしなくてはいけないらしい。
 なんだってそんな面倒くさい事しなくちゃならないんだろう。相手が何かと顔を合わせることが多い同じ一年の部員なら、笑い話のネタくらいに考えれば諦めもつくけど、二年生が相手になればいくら義理といっても少しは気を遣わなくちゃいけないし、ロクに話もしたことがない三年生に当たってしまったら、もう泣くしかない。
 ボイコットしたいところだが、おそらくはムリだろう。三年生まで集まってくるくらいだ、下手に辞退したら先輩たちのイビリに遭うか総スカンされるかどちらかに決まっている。
「でも」
 綾がせめて同級生にあたりますようにと願いながら缶を見つめていると、キャプテンがわずかな希望の光を照らしてくれた。
「本命がいる人は参加しなくてもいいです。義理チョコを買うお金があったら、本命チョコをフンパツしてください」
 どっと笑い声が上がり、綾は密かに小さく安堵のため息をついた。そんな抜け道があるなら使わない手は無い。別に綾に本命なんていう存在がいるわけじゃないが、密かに想いを焦がす人がいるということにすればいい。
 そういえば、キャプテンは男子部三年の前キャプテンと付き合っているという噂を聞いたことがある。キャプテンも義理チョコに余計な気を遣いたくないという事情もあるのかもしれない。
「本命いる人、いる?」
 キャプテンがあっけらかんと尋ねる。そんな大っぴらに聞かれるとは思わなかったので綾は大いに戸惑ったが、ここは仕方が無い、おずおずと手を上げた。
 全員の視線が綾に集まって沈黙が起こり、瞬き二回分くらいの間を置いて、一年生を含む全員から驚きの声が漏れた。
「えー? 二ノ宮、あんた本命いるの?」
「チビっ子二ノ宮に本命か、意外ねぇ」
 意外とはどういう意味か。綾だって女の子だ、恋くらいしたっておかしくないだろう。それと、チビっ子というのも余計だ。確かに、背の順で並ぶと前から数えたほうが早いけど、背が小さいんじゃなくて他の人より成長期が遅いだけだ。
「それでそれで、二ノ宮の彼氏ってどんな人?」
「いつから付き合ってんの? ていうか、相手誰よ?」
 マズった。綾は舌打ちしたくなった。本命がいるっていうのは「好きな人がいる」じゃなくて「付き合っている人がいる」という意味だったのか。片想いと両想いでは相当に状況が変わってくる。
「ほらほら、聞かせなさいよ。話さないと帰してあげないよ?」
 キャプテンが楽しそうに問い詰め、他の部員たちも興味深々の視線を綾に集めてくる。こりゃダメだ、今さら嘘ですとか間違いですとは言えそうにない。それどころか、「本命」が誰なのかを暴露しなければ本当に帰してくれなさそうな雰囲気がプンプンしている。
「ねえ、誰よ。クラスの子? ひょっとして、男子部の誰かとか?」
 きゃあきゃあと無責任に嬌声を上げる一同に心の中で呪いの言葉を呟きながら、綾は慌しく考える。同級生や同じ陸上部員はダメだ。下手に噂になって流れ出すと後が面倒だし、綾のデタラメ話が発覚する可能性も高い。かといって、それ以外の男子生徒は全くもって接点が無い。
 嘘を露呈させないためには「本命」は学校外にいるということにした方がいい、とそこまで考えた綾は、どうとでもなれと咄嗟に思いついたことを口にした。
「えっと、あたし大学生と付き合ってるんです」
 一瞬、辺りを沈黙が支配し、さきほど綾が挙手したとき以上の驚きの声が一斉に上がった。
「大学生?! あんた、チビっ子のくせに大学生と付き合ってるの?」
「意外も意外、意外すぎよ、あんた」
「かっこいいじゃん、二ノ宮」
 一同の反応はいろいろだ。半分くらいはムカつきを覚える反応だったが。
「でもさぁ」
 少し落ち着きを取り戻したキャプテンが綾を一目する。
「それ、本当? イベントを辞退するためのデタラメじゃないだろーね?」
 さすがキャプテン鋭いですね、とはもちろん言わなかった。こうなったら最後まで嘘を突き通すしかない。
「本当ですってば。まだ付き合ってそんなに経ってないですけど」
 ちょっと大げさに口を尖らせて拗ねて見せて、根掘り葉掘り尋ねてくる質問に嘘八百を並べ立てる。それでようやくキャプテンも納得して綾のバレンタインイベント辞退を認めてくれたが、その代わりと言わんばかりに綾の顔を覗き込んでこう言った。
「あんたの彼氏、私たちに紹介してよ」


「というわけでさぁヒデ兄、お願いだから頼まれてよ」
 綾は半分呆れたような薄い笑いを顔に張り付かせている従兄のヒデ兄──英樹に両手を合わせる。
 英樹はアパートで一人暮らしをしながら市内の大学に通っている。綾の知己に大学生は英樹しかいない──というより、綾が咄嗟にでっち上げた「大学生の恋人」は、勝手に英樹をベースにしていた。なので、英樹に恋人役をやってもらうしか無いのである。
「俺に、そのキャプテンと会えっての?」
 レポート作成で忙しい折、いつものことだが何の前触れも無く押しかけてきた上に、図々しい頼み事をする従妹を英樹は苦笑しながら見やる。
「んん、なんだかんだ理由つけて直接会うのは諦めてもらったんだけどさ、代わりに付き合ってる証拠見せろって」
「証拠ってなんだ? 写メでも送りゃいいのか?」
「それがさぁ……デートしてるとこが見たいって言うわけよ」
 英樹は何度か目を瞬いて、不本意そうな表情をしてる綾を見た。
「つまり、現場を見なきゃ信じられねぇってわけか」
「そゆこと。ほんっと、失礼しちゃう」
 綾が不満なのは、「本命」の存在を疑われていることではない。綾が子供っぽいというだけの理由で、綾が男と付き合っているはずがないと思われていることだった。
 それも仕方ないと英樹は思う。綾自身は「成長期が人より遅いだけ」と強弁しているが、現実として、綾が同世代の子たちと比べて小柄で華奢なのは確かな事実だ。しかも、部活のために髪を短くしているせいで、やんちゃっ子の影を色濃く残しており、遠くから見れば少年のようにさえ見える。その容姿から、恋と縁がなさそうに見えても仕方が無いし、実際に今のところ縁はなさそうだ。
 正直に言えば、英樹から贔屓目なしで見ても綾は可愛いと思う。黒目がちの大きな瞳は十分にチャームポイントと言えるし、整った顔立ちをしていて、まあ美少女と呼んでいいだけの素材だろう。ただ、いかんせん本人に自覚が無さ過ぎる。おそらく同性から見るとそれがさらに顕著で、キャプテンからすると女としての自分を磨くことに無頓着な綾は、恋に身を焦がす女には見えなかったのだろう。
「要は、俺と綾が一緒にいるところを、そのキャプテンに目撃させればいいわけだろ」
「手伝ってくれる?」
「しゃあないな。手伝ってやるよ」
「ほんと?! さっすがヒデ兄!」
 これでキャプテンの追及をかわす事ができると、綾は拳を固めて大げさなガッツポーズをする。そういう男子みたいな仕草をするから「恋する女」に見てもらえないのだと英樹は思ったが、口に出しては別のことを言った。
「その代わり、だ」
 英樹のちょっと意地悪さが込められた声に、綾は嫌な予感がして振り向いた。
「なに?」
「バレンタインのチョコは頼むぞ。気合いの入ったやつで、できれば手作りだ。なんたって、俺は綾の『本命』なんだからな」
 英樹のにへらっとした笑みを憎たらしく思いながら、綾は口を尖らせつつも渋々うなずいた。誰かにチョコをあげなきゃならないとしたら、英樹の方がまだ穏当だ。


 そして週末。
 綾は駅前で「恋人」の英樹を待っていた。本来なら英樹のアパートから一緒に出かけた方が手っ取り早いのだが、人並みのデートっぽく駅前で待ち合わせることにしたのである。その方がキャプテンを欺きやすいはずだ。
 そのキャプテンは綾から少し離れたところにいる。待ち合わせを装って時計を眺めながら、時折綾の方に視線を送ってくる。貴重な休日の午前中から、他人のデートを覗き見るために出かけてくるとはご苦労なことだ。キャプテンだって彼氏がいるんだからデートしてればいいのに。
「やあ、おまたせ」
 キャプテンの方を気にしていた綾がその声に振り向くと、英樹が胡散臭さを感じさせるくらい爽やかなスマイルを振りまいてやってきた。演技し過ぎだ。
 意外なことに、いっつも汚いジーパンとトレーナーばっかりの英樹が今日はシックに決めていて、しかも思いのほか似合っていた。こんな芸当も出来たとは驚きだ。
「じゃあ、行こうか」
「あ、うん」
 綾はピョンと小さく飛び跳ねて英樹と肩を並べると、キャプテンの視線を感じつつ駅前通りの方へと歩き出す。
「おい」
 歩きながら英樹が少し引きつったように唇を釣り上げながら小さな声で囁いた。
「腕を組むか、手を繋ぐかくらいしろ」
「な?!」
「今どき、付き合ってるのに指一本も触れないような清純異性交遊なんか、中学生同士のカップルだってやらねぇぞ?」
「……ったく、調子に乗って」
 綾は愚痴りながらも仕方なく英樹の手を握ろうとして、握る手の位置の高さに驚いた。今まで気づかなかったというか気にしていなかったけど、こうして並んで歩いてみると英樹は思ったより背が高く、意外な身長差に少し傷ついた。それでも、今まで顔を合わせることはちょくちょくあっても二人で出歩くなんてことは無かったから、新鮮な驚きと楽しさがあった。
「どうしたよ?」
「ん」
 促されて、綾はほんの一瞬だけ迷った挙句、英樹の腕に控えめに自分の腕を絡めた。悔しいが、手を繋いでいると「ちょと仲のいい兄妹」くらいにしか見られない気がしたのである。奇妙な感覚が胸の内に沸き起こるのを感じて英樹の横顔を見上げると、
「おぉ、いい感触だ」
 英樹の締まらない笑みにぶつかって、鼻を鳴らして横を向いた。綾はそっとキャプテンの方を振り返る。キャプテンは綾の視線に気がつくと、意味ありげにウインクをし、小さく手を振ってどこかへと歩き去ってしまった。
「……あれ。キャプテンどっかに行っちゃった」
「なんだよ、待ち合わせ現場だけ確認したら満足しちまったのか?」
「かなぁ」
 どうやらあっさりとミッションコンプリートしてしまったようだが、疑い深いキャプテンを欺くためにせっかく英樹となんやかやと計画を練っていただけに、綾は拍子抜けしてしまった。
 それは英樹も同じで、せっかく気合いを入れてやってきたというに、これでおしまいでは呆気なさ過ぎる。
 二人はどちらからともなく視線を合わせて、ほとんど同時に溜め息をついた。
「せっかく朝っぱらから出かけてきて、これでおしまいというのもつまらんな。どうせだから、ブラブラしていこうぜ」
「そだね。予定通り行く?」
 いちおう昨日のうちに、映画を見てそれから食事をして──というありがちなカップルの休日の過ごし方を計画してはいた。だが、英樹は首を横に振った。
「いや。俺はまず服を買いに行きたいね」
「ヒデ兄、服買うの? だったらあたしが選んであげるよ」
「いいや。俺が買いたいのはおまえの服だ」
「あたしの? ひょっとして、ヒデ兄が買ってくれるの?」
「あぁ、買ってやる」
 言い切る英樹はぶっきらぼうで、しかも不機嫌だった。さっきまでの、にへらっとした笑みはどこかに吹っ飛んでしまっており、綾は戸惑って目を瞬かせる。
「なんで怒ってんの?」
「当たり前だろうよ。俺が綾の『年上の恋人』を演じるために気合い入れてきたってのになぁ」
 英樹はクルリと向き直って、きょとんとする綾を睥睨する。上からスタジャンにスウェットパンツ、スニーカーという服装は、全くいつもの綾の格好だった。
「おまえ、それのどこがデートに行く女の格好なんだよ? これからジョギング行きますって感じだぞ」
「仕方ないじゃん。あたしが持ってる服、スポーツウェアがメインなんだから」
「だから俺が買ってやるっつーの。選ぶのも俺だ。おまえのセンスはアテにならないからな。行くぞ」
 歩き出した英樹を綾は憮然として眺めていたが、渋々と英樹の背中を追いかけて腕を絡めた。
 やってきたのは、この辺りでは人気のあるレディス専門店だった。英樹だって至って平凡な男子大学生なので女性のファッションにはさほど詳しくは無く、名の知れた店で買うのが一番安心だ。
「言っておくけど、スカートはやめてよね」
 綾のささやかな注文も完全に無視していた英樹だったが、店内を見て回っているうちに値段という高い壁にぶち当たった。懐具合と相談した結果、靴の買い替えはムリという結論に達し、綾が履いているスポーツタイプのスニーカーに合わせるには、スカートは諦めざるを得ないようだった。
 それでも、少しでも女の子らしい格好をさせようと、ホワイトジーンズとピンクのロングカーディガンを持たせて綾を試着室に放り込む。綾が呟く愚痴と衣擦れの音をBGMにほんわかした妄想を膨らませていると、綾がカーテンの端から顔だけを出した。
「ねえ、ヒデ兄。やっぱこれ変だって」
「変かどうかは俺が決める。どれ、見せてみろ」
「ちょっと!」
 綾が慌てて抑えようとするカーテンを英樹は無理やり開いた。そこには、脚のラインにフィットしたスリムなジーンズと、下手すると滑稽になりそうな鮮やかなピンクのカーディガンを見事に着こなした綾の姿があった。想像以上の出来栄えに英樹は言葉を失う。
 言葉を継げない英樹に、綾は地団駄を踏んだ。
「だから変だって言ったじゃん! ヒデ兄がこれがいいって言うから仕方なく着てあげたのに、無反応ってどういうことよ?!」
「いや、おまえ……」
 英樹はようやく口を開いて、綾を試着室の中の鏡の方に向けさせた。スウェット系のゆったりとした服を着ている姿を見慣れているせいか、いつもよりさらに華奢に見える綾の姿を鏡越しに上から下まで観察し、その可愛らしさに相好を崩す。
「こりゃ驚いたな。おまえ、めちゃくちゃ可愛いぞ」
「え……」
 綾は思わず真顔になって振り返る。それを再び鏡の方に向かせて、英樹は満足したように何度も頷く。
「自分で選んどいて何だけど、こんなにバッチリ決まるとは思わなかったぞ。ジャージみたいなのばっかり着てるのがもったいねぇな」
「そ、そう?」
「ああ。この調子なら、スカートも絶対似合う」
「それは却下」
 ピシャリと言いながらも、綾は気恥ずかしい気持ちで鏡の中の自分を見た。普段、ピンク色の服を着ることなんて皆無だから自分としてはあまりしっくり来ないのだけど、鏡越しに見る英樹の顔に「にへら笑い」が復活しているところを見ると、お世辞で褒めてくれているわけではなさそうだ。
 胸の奥で形の定まらないものが揺れ動くのを感じながら、鏡を通して英樹に目を合わせた。
「じゃあ、これ買って」
「おう。綾が嫌だって言ってもそれを買うつもりだ」
 綾はやんわりと英樹をにらみ、会計をするために再びカーテンを閉めて着替えた。
 決して安くない買い物だったが、英樹は気前良く会計を済ませると、店の試着室を借りて買ったばかりの服に早速着替えさせる。
 正直、綾はこの格好で街を歩くのはかなり勇気が要ったが、大いに機嫌をよくした英樹がそんなことを全く気に掛けもせずにあちこちに連れ回したせいで、結局、当初の目的を忘れて日が暮れるまで遊びまくってしまった。綾も楽しすぎるほどに楽しみ、綾の家に着いたときは辺りはもうすっかり暗くなっていた。
「もうこんな時間かぁ。すっかり遊びすぎちゃったね」
 そう言う綾に釣られて英樹も携帯を開き、時間と日付を見て重大なことを思い出して頭を抱えた。
「あぁ、週明けにゼミでレポート出さなきゃなんないんだった。こりゃ今日は徹夜だな」
「あはは、ご苦労さん」
「んじゃ、帰るわ」
「うん、またね」
「またな。今日はありがとよ」
 英樹は小さく手を上げて自分のアパートへと歩を向ける。
 遠ざかろうとするその後姿を見て、綾の体の奥にまた先ほどのモヤのようなものが込み上げてきて胸を締め上げた。何かを言いたい、または言わなきゃならないことがあるような気がする。ありがとうを言うのはこっちの方だと思ったが、喉元まで出かかった言葉はそんなものではないように思えた。なんだろう、この感覚は。
「ヒデ兄!」
 理由のわからない焦燥感に、綾は思わず声を上げた。英樹が立ち止まって振り向く。
「どした?」
 呼び止めたはいいけど、何を言えばいいのかが自分でもわからない。喉元まで何かが出掛かってるに、そこから先へは出てこようとしない。英樹の訝しげな視線を受け、何かは言わなきゃいけないような気がして、仕方なく全く別のことを口にした。
「チョコ、期待しててよね」
 英樹は何度か目を瞬かせ、そして口元を緩めた。
「おうよ」
 綾は英樹のいつものにへらっとした笑みに妙な安堵感を覚えながら手を振った。胸の中のモヤモヤが消えたわけではなく、むしろ増大していたのだが、それを無理やり押し込めながら英樹の後姿が消えるまで見送ってから玄関に入った。

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